2007年03月31日

豊臣秀頼・徳川家光

徳川家光は、織田信長の妹(お市の方)の三女の子
である。家光の母の一番上の姉は秀吉の側室淀君に
あたる。豊臣秀頼と家光は従兄弟ということになりま
す。しかも、秀頼の妻の千姫は、家光の姉でもある。
なんと難しいことか。
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2007年03月30日

豊臣秀吉・淀君

淀君の君の君は遊女を指す言葉である。彼女の
子供達は本当に秀吉の子だったのだろうかという
ことさえ想像できそうだ。あるいは、徳川家が豊臣家を
滅ぼすために意図的に淀君を悪者にしたのだろうか。
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2007年03月29日

豊臣秀吉・豊臣秀勝

滋賀県長浜市に行った時驚きました。
妙法寺(滋賀県長浜市大宮町)の案内書によると
天正4年10月14日秀吉公の長男秀勝公が夭逝し
当寺に葬られた。本光院朝覚居士。端正な顔立
ちの絵像が伝わっていた。
豊臣秀頼以外に実子がいたとは。教科書には載ってな
かったと思うが。
歴史とは興味深いことが多いですね。



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2007年03月28日

豊臣秀吉・鎌倉街道

鎌倉街道には、
光明寺(愛知県海部郡甚目寺町)は、豊臣秀吉が日吉丸の頃、
修行を積んだといわれる。
清洲城(愛知県清須市清洲町)がある。


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2007年03月27日

豊臣秀吉・鎌倉街道

鎌倉街道には、浅野長勝宅址(愛知県稲沢市六角堂)もある。
豊臣政権の五奉行として仕えた浅野長政と豊臣秀吉
の正室ねねの義父。長勝と秀吉の関係は深かったと
思われる。                        浅野長勝宅址の碑は民家の中に建てられている。
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2007年03月26日

豊臣秀吉誕生の地

豊臣秀吉誕生の地(名古屋市中村区中村町)は、
萱津の東宿跡の隣にある。
萱津の東宿は、庄内川をはさみ萱津宿の出郷として、
京より美濃を経て鎌倉に赴く交通の要衝であった。
また、盛んに市の立ったところで、鎌倉時代の紀行文
「東関紀行」に、「萱津の東宿の前をすぐれば、
そこらの人あつまりて、里もひびくばかりにののしりあれり。
今日は、市の日なむとぞいふなる。」
と当時の賑わいを記している。

「東関紀行」
鎌倉前期の紀行。
作者は、鴨長明、源光行、源親行などの説があるが不詳。
京都東山に隠遁生活をしていた作者が1241年京都を立って
鎌倉に下り、2ヵ月滞在後帰京の途につくまでの見聞を記す。




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2007年03月25日

豊臣秀吉の妻・ねね

豊臣秀吉の妻・ねねの実家の浅野氏の祖は、
清和源氏頼光流土岐氏という。
明智光秀との関係があることになる。
信長の妻の濃姫も光秀との関係があることを思うと
不思議でならない。
濃姫にもねねにも、天は子を授けなかった。
天の願いはどこにあったのだろうか。
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2007年03月24日

豊臣秀吉誕生の地

鎌倉街道は鎌倉から京都へ出るための重要な道路で、
室町時代まで萱津も宿駅として大いに栄えたという。
豊臣秀吉誕生の地は、萱津の東宿跡の隣にある。
このような場所で、豊臣秀吉は1536年生まれた。
(1537年生まれの説もある。)
現地に立って思うことは、このような場所で生まれた
豊臣秀吉は、お百姓のイメージは浮かんでこない。
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2007年03月23日

豊臣秀吉

豊臣秀吉は多指症だったとのこと。
普通は小さい頃に1本切除して5本とするが、
秀吉は6本指で通した。
あなたは指が6本だったらどう思いますか。
自分の将来にワクを自ずと決めてしまって
いるというようなことはありませんか。
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2007年03月22日

織田信長・羽柴秀勝

織田信長の四男。羽柴秀吉の養子。
秀吉が主導で行った織田信長の葬儀の喪主。
病弱のため、本能寺の変の3年後の1585年、
18歳で病没。
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2007年03月21日

織田有楽

織田有楽斎(1547〜1621)は信長の実弟で茶の湯
の創成期に尾張国が生んだ大茶匠であり、その生涯
は波瀾に富んでいた。
有楽は晩年、武家を棄て京都建仁寺の正伝院を
隠棲の地とした。
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2007年03月19日

織田信長・吉乃

吉乃の三百回忌は幕末の1865年、生駒周行が久昌寺で営んだ。
現在、江南市歴史民俗資料館にて吉乃の三百回忌法要を開いたときの、信長を祖にする柏原藩(現在の兵庫県)藩主・織田信民に
法要を知らせた文書等が紹介されている。(H19.4.8まで)
吉乃が三百年を経ても両家にとって大きな存在であった
ことが分かる。
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2007年03月18日

織田信長・娘徳姫

織田信長の娘徳姫は、徳川家康の長男信康と結婚した。
家康が浜松城に移った年(1570)、長男信康は岡崎城主になる。
織田信長は、信康の母・築山御前が今川方の出身であり、
武田方と内通しているとの理由で、
築山御前と信康の処断を家康に迫る。
家康も助命のために努力するが、、
果せず信康は自刃、築山御前は殺害される。
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2007年03月17日

織田信長・織田信重

織田信重は、津田信澄の長男。母は明智光秀の娘。
祖父は織田信長の弟・織田信行。
大坂の陣では豊臣軍として活躍。
大坂城、落城後、幕府に自首。
徳川家康に罪を許される。
豊臣方につくも、母が明智光秀の娘
だったので許されたのだろうか。


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もご覧ください。
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2007年03月16日

織田信長・森一族

坂本城門遺構、明智光秀寄進の鐘がある聖衆来迎寺(滋賀県大津市比叡辻)に森可成の墓がある。              明智光秀の出生地の一つとされる、明智城(岐阜県可児市瀬田)と金山城(岐阜県可児郡兼山町) は3kmくらいの距離である。織田信長の家臣として、明智光秀と森一族はどのような 
会話をしたのだろうか。
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2007年03月15日

織田信長・木瓜紋

織田信長が家紋として使った木瓜紋は
津島神社(愛知県津島市)のご神紋である。
さらに津島神社・楼門(重要文化財指定)は、
1591年の創建で豊臣秀吉公の寄進と伝える。
津島神社・本殿(重要文化財指定)は、
1605年清洲城主松平忠吉公(徳川家康四男)
の健康を祈願して妻女政子の方より寄進された
建物である。

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2007年03月14日

生駒家・蜂須賀家

小折の生駒家の近くに蜂須賀家屋敷(愛知県江南市宮後町)
がある。
関ヶ原になって、蜂須賀家政は阿波一国を豊臣家に返上し、
高野山にのぼり、子・至鎮は東軍に参加するのである。
戦後、至鎮にあらためて、阿波一国が与えられている。
関ヶ原の戦いの時、生駒家と蜂須賀家は似たような
行動をとっているのである。


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2007年03月13日

織田信長・生駒氏

関ヶ原の戦いの時、生駒親正は西軍に属し、
子の一正が東軍に属する。
戦後、親正は罪を謝し高野山にのぼる。
子の一正は、父・親正の本領讃岐17.18万石を領した。
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2007年03月12日

織田信長・生駒家

吉乃の生駒家の近くに蜂須賀家屋敷(愛知県江南市宮後町)がある。
生駒家は信長、蜂須賀家は秀吉という感じがするが、
関ヶ原の戦いの時、生駒家と蜂須賀家は似たような行動をとっているのである。


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2007年03月11日

織田信長・吉乃

吉乃は夫の死後織田信長の側室に。
土田秀久は明智氏の家臣といわれる。
土田城は、明智光秀の出生地の周辺であることは確かである。
土田親重は幼時に生駒豊政の養子となる。
土田城(岐阜県可児市)と生駒氏(愛知県江南市)は、
県が違うので、遠そうな気がするが、直線で十数kmの
距離である。意外と近いのである。
土田氏が明智氏の家臣であったならば、
この距離が示すように、
明智氏と織田氏は、信長以前から親密な関係であったのかもしれない。
posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする