2007年04月30日

豊臣秀吉・三条大橋

東海道の終点、三条大橋(京都市)は、天正18年(1590)
に豊臣秀吉によって完成されたという。
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2007年04月29日

豊臣秀吉・三十三間堂

太閤塀(三十三間堂)
土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねている。
熱田神宮の信長塀、西宮神社の大練塀と
並び日本三大塀の一つといわれている。
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2007年04月28日

豊臣秀吉・福島正則

福島正則は、母が豊臣秀吉の母の妹。1561年、この地(愛知県海部郡美和町二ツ寺)にうまれる。
賎ヶ岳七本槍の一番手。
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2007年04月27日

豊臣秀吉・アイデア

我々は、何か成功しようと思うと、頑張ろうとしたり、
とりあえず資格を取ろうとする。頑張るためどこか無理
が生じたり、とりあえず資格を取ろうとするために、
時間を失ってしまうことも少なくない。秀吉が一夜城を
築いたように、所属している組織のために、皆のために、
アイデアを練って人生を歩めば、
何年も人生を短縮出来るだろう。
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豊臣秀吉・アイデア

我々は、何か成功しようと思うと、頑張ろうとしたり、
とりあえず資格を取ろうとする。頑張るためどこか無理
が生じたり、とりあえず資格を取ろうとするために、
時間を失ってしまうことも少なくない。秀吉が一夜城を
築いたように、所属している組織のために、皆のために、
アイデアを練って人生を歩めば、何年も人生を
短縮出来るだろう。
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2007年04月26日

前田利家・まつ

まつ(前田利家の妻)の生家と言われる林氏日開常信家の屋敷跡
(愛知県海部郡七宝町沖之島北屋敷)
まつは、1599年利家の死後、出家して芳春院と称する。    1600年、家康の誤解を解き前田家を守るために人質として
江戸に赴き、14年の歳月を人質として過ごす。        金沢に戻って3年後の1617年、71歳で死去。
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2007年04月25日

前田利家

前田利家の出生地については、前田城で生まれ7歳の時、
荒子城に移ったという説と荒子城で生まれ育ったという2説
がある。
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2007年04月24日

豊臣秀吉・前田利家

前田利家
織田信長に仕える。賎ヶ岳の戦いでは、柴田勝家を離れ、
豊臣秀吉につく。五大老の一人。              秀吉死後は秀頼を補佐するも、関ヶ原の前年1599年亡くなる。 子の利長は関ヶ原の戦いで東軍に属し、所領安堵。
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2007年04月23日

豊臣秀吉・前田利家

加賀藩の藩祖・前田利家は尾張国海東郡荒子村
(現名古屋市中川区)に生まれた。
あおなみ線荒子駅前広場に前田利家の銅像が
完成し、H19年4月21日除幕式が行われた。
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2007年04月22日

豊臣秀吉・石川数正

家康に人質時代から従い、桶狭間の戦い後、駿府
に人質となっていた家康の妻子を取り戻した石川
数正の墓がある。また数正の母であり、破壊された
当寺の再建を願い出た妙西尼もここに眠っている。
1585年、突如豊臣秀吉のもとに逃亡。秀吉から信濃
10万石を与えられ、1593年、病死、その後、
息子の代に徳川家康によって改易。
徳川家のために豊臣家に逃走したのだろうか。
戦国時代ならそのようなこともあるかもしれない。
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2007年04月21日

豊臣秀吉・柴田勝家

今日、4月21日は賤ヶ岳の合戦決戦が行われた。
柴田勝家は信長の妹・お市の方をめとっている。   
3人の娘がおり(父は浅井長政)、勝家滅亡の際、脱出させる。それぞれ成長し、豊臣秀吉の側室・淀君、
京極高次の室・常高院、徳川秀忠の室・崇源院となる。    淀君はどんな思いで秀吉の側室になったのだろうか。
posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月20日

羽柴秀吉・賤ヶ岳の合戦

賤ヶ岳の合戦と七本槍
1582年本能寺に倒れた織田信長の家督相続のため、
1583年、賤ヶ岳付近で羽柴秀吉と柴田勝家の間で戦
が行われた。                       
4月21日決戦が行われた。明日ということになります。
秀吉の大勝に終わり、
勝家は北ノ庄城(福井市)に敗走するが、4月24日、自刃する。
この戦いにおける、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・ 
平野長泰・脇坂安治・片桐且元・糟屋武則の奮戦ぶり
を賤ヶ岳七本槍という。
posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 20:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月19日

豊臣秀吉・中川清秀

中川清秀
熱心なキリシタン。                   
織田信長に仕え、荒木村重に属する。       
1578年、村重が信長に背くと、清秀は信長につく。
本能寺変後、山崎の合戦では豊臣秀吉に属する。
賤ヶ岳の戦いでは大岩山に陣したが、柴田勝家・
与力の佐久間盛政に攻められ戦死。
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2007年04月18日

豊臣秀吉・高山右近

キリシタン大名。洗礼名はジュスト。
荒木村重に属し、摂津国高槻城主として、織田信長
に対抗したがのち信長に従う。
本能寺の変後は、豊臣秀吉に属し1585年、播磨明石城主となる。
小西行長らにキリスト教を布教。
1587年、伴天連追放令に伴い改易、加賀前田氏の下に寄食。
1614年、江戸幕府もキリスト教禁令により国外追放。
フィリピンのマニラで没する。
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2007年04月17日

豊臣秀吉・脇坂安治

脇坂安治
近江浅井郡生まれ。(1554〜1626)初め明智光秀の家来。   次いで豊臣秀吉に仕える。
賎ヶ岳の戦い(1583)に軍功をあげ、七本槍の一人に数えらる。関ケ原の戦いでは西軍に属したが、決戦の最中に寝返る。
所領は安堵。
明智光秀との関係が所領は安堵につながったのだろうか。
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2007年04月16日

豊臣秀吉・小出秀政

小出播磨守秀政(1540-1604)は、豊臣秀吉と
同郷の出身で、和泉国岸和田3万石を領せられ、
のちに片桐且元とともに秀頼の守り役を勤めた。
長子吉政は、但馬国出石の城主となり、
関ヶ原合戦には西軍に加わったが、
次子は東軍に加わって戦った。
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2007年04月15日

豊臣秀吉・木下勝俊

木下勝俊宅跡(名古屋市中村区豊端町)
木下勝俊は、木下家定の長子、北政所の甥である。
秀吉のもとで若狭9万石を領した。           
小早川秀秋の兄。関ケ原の戦い後、隠棲。隠退後は、
風流三昧に世を送る。
posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月14日

豊臣秀吉・増田長盛

増田長盛は1545年にこの地(愛知県稲沢市増田南町)に生まれ、豊臣秀吉に仕えて五奉行の一人となった。         
諸国検地を担当。
大和郡山20万石。関ケ原では西軍に属したため領土没収。
大阪落城後、自刃。
posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月13日

豊臣秀吉・前田玄以


美濃出身。前田玄以は豊臣政権の五奉行の一人。      
所領として秀吉から丹波亀山(現亀岡市)の地
を与えられる。                 
なお、亀山城は明智光秀が丹波攻略の拠点
として築城した。                 
関ケ原の戦いの時、石田三成に与したが、
三成方の動向を家康方に知らせた功績により
所領安堵。                    
五奉行の増田長盛・長束正家と何が運命を分
けたのだろうか。
posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月12日

豊臣秀吉・石田三成

石田三成
豊臣政権、五奉行の一人。                
幼少より、豊臣秀吉に仕え、1583年の賤ヶ岳の戦い
の功により重用される。                  
文禄・慶長の役などに出陣。太閤検地の施行などを担う。   1590年、佐和山城主となる。              
豊臣秀吉の死後、徳川家康と対立し、関ヶ原の戦い
に敗れる。
posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする