2007年05月31日

織田信長・本能寺大茶会

1582年6月1日  本能寺で大茶会を開く。
織田信長の人生で、たった一度だけ大人数を集めて会合を持った。
それは本能寺の変の前日6月1日、本能寺大茶会だった。
このときは、わざわざ安土城内に大事に保管する数々の大名物・名物38種を茶会会場となる本能寺まで運搬し、一堂に披露した。
この大茶会の出席者は、近衛前久父子、九条兼孝、一条内基、二条昭実、鷹司信房、今出川晴季、徳大寺公維ら41名の公家、京の五山などの寺社の代表、京を代表する商人の歴々などである。
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2007年05月30日

明智光秀・愛宕神社

明智光秀が詣でた愛宕神社は、ただ近所にある神社ではないのです。
標高924メートル、愛宕山の頂上にある愛宕神社は、
山麓の清滝からでも約2時間の登山が必要になるのです。
本能寺の変を前にした50半ばの光秀が、愛宕神社を詣でたことを、
どうか心に留めていただきたいのです。



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2007年05月29日

明智光秀・斉藤利三

春日局の父・斉藤利三の母は光秀の妹だったともいわれ、
さらに、斉藤利三の先妻は、斉藤道三の娘といわれている。
道三の娘であれば、織田信長の妻・濃姫と姉妹ということになる。
その後、利三は、春日局の母・あんと再婚する。

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2007年05月28日

道三・信長・光秀

信長には道三の戦争や政治における奇略と決断が
受け継がれていく。
それが一つの独創性となり、歴史や伝統を
打ち破る力ともなっていく。
その個性は道三以上に強烈であるかもしれない。
信長もまた天下を夢に見ている。
道三を中心として、信長と光秀の因縁を感じざるを得ない。
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2007年05月27日

明智光秀・斎藤道三

明智光秀と斎藤道三
斉藤道三の妻小見の方の甥であった光秀は、
道三から古典的な教養の面を受け継ぎ、
そして歴史とか伝統とかいうものに深い関心を持ちながら、
一方では天下に対する野望を抱いている。
光秀のその伝統に依拠する姿勢が正統的であるがゆえに、
そこに悲劇がはらまれていたかもしれない。
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2007年05月26日

明智光秀・明智小五郎2

明智光秀の出生地のひとつと言われる
白山神社(岐阜県山県郡美山町中洞)では、
「天正十年山崎の合戦で羽柴秀吉に討たれ死んだのは、
光秀の影武者荒木山城守行信である。
明智光秀は、荒木山城守の忠誠に深く感銘し、
この事実を子孫に伝えんと荒木の「荒」と
恩義を深く感じての「深」で
自らを荒深小五郎と名乗り西洞寺の林間に隠宅を建てて、
乙寿丸と共に住んでいた。」とある。
これから名探偵・明智小五郎となったのかな?
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2007年05月24日

明智光秀・出生地

出生地
戦国時代の有名武将は、その前半生が謎に包まれている場合が多い。
明智光秀についても例外ではなく、その出自については現在もなお不明な
点だらけである。
岐阜県内に出生地とされる所が、@可児市瀬田、A恵那郡明智町、
B山形郡美山町の3ヶ所ある。
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明智光秀・明智小五郎

明智小五郎
江戸川乱歩が創作した名探偵。
命名の由来は、明智光秀と桂小五郎
(木戸孝允)の上下を取ったもの。
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2007年05月22日

織田信長・永姫

永姫
織田信長の娘。前田利長の正室。二人に子供は出来ず
利長の弟の利常を養嫡子とする。
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2007年05月21日

織田信長・蒲生氏郷

織田信長は蒲生氏郷の才を見抜き、
次女の冬姫と結婚させた。
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織田信長・蒲生氏郷

織田信長は蒲生氏郷の才を見抜き、
次女の冬姫と結婚させた。
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2007年05月20日

織田信長・阿弥陀寺

阿弥陀寺(京都市上京区)
天文年間(1532-55)に清玉上人が近江(滋賀県)の
坂本で開創。織田信長の帰依を得て京の地に移した。
1582年(天正10)信長父子が旧本能寺で自刃したとき、
上人が密かに骨灰をあつめてこの寺に葬ったという。
本堂の本尊阿弥陀如来像の傍らに信長、信忠の像、
境内に信長父子および森蘭丸ら120余人の墓がある。
豊臣秀吉によって現在の場所に移転。
秀吉には、移転するだけの訳があったのだろうか。

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2007年05月19日

織田信長・濃姫の墓

濃姫の墓(岐阜市不動町)
お濃の墓の由来
この墓は天正10年6月1日京都本能寺の変の折、
夫君織田信長公と共に討死にされたお濃の方の墓で
討死された時家臣(氏名不詳)の一人がお濃の方の
遺髪を持ってこの地まで逃れて来て埋葬したものと
伝えられている。
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2007年05月18日

織田信長・水野太郎左衛門

水野太郎左衛門宅跡(名古屋市東区)
初め上野村(現名古屋市北東部)の鋳物師であった水野家は、
永禄5年(1562)初代太郎左衛門のとき、織田信長により
尾張国中の鐘、鰐口等を鋳造する特権を与えられれた。
文禄2年(1593)2代のとき清須へ、慶長16年(1611)3代のとき
この地へ移り住んだ。
江戸時代、尾張藩の鋳物師頭を代々務め、
国内の鋳物の製造・販売はすべてこの家を経た。
名古屋市指定文化財の性高院(千種区)や
東別院(中区)の梵鐘は同家の作品である。


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2007年05月16日

織田信長・臥松水

臥松水(稲沢市六角堂東町・長光寺内)
昔織田右府清須城にある頃、この井水を特に
愛飲し、茶室にはもちろん膳部まで用い、儒臣
夕庵に命じて、臥松水の記並びにその三文字
の額を書かしめ、井上に掲げたと伝える。
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2007年05月15日

織田信長・道三

道三・信長両将決別の地(笠松町田代)
道三は娘を信長の嫁にしている。
天文二十二年(1553年)春、富田の正徳寺で親子対面し、
ここまで来て、ここで決別の儀を行い、
それぞれの城へもどっていった。
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2007年05月13日

織田信長・延暦寺

比叡山延暦寺(大津市坂本本町)
1571年比叡山を焼討ちする。
比叡山は大比叡岳(848m)と四明岳(839m)から成る。
近所の寺を焼討ちするのではないのである。
織田信長の焼討ちののち、1640年に再建された。

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2007年05月12日

織田信長・長興寺

長興寺(愛知県豊田市長興寺)
1583年、織田信長の家臣余語正勝は、織田信長の
一周忌に長興寺で法要を行った。        
その際に寺に寄贈されたのが、「紙本著色織田信長像」である。
歴史の教科書等でおなじみの織田信長像である。         この信長像は信長をよく知る狩野元秀によって描かれた。
実際の信長に最も近いものの一つとされている。
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2007年05月11日

織田信長・妙心寺

妙心寺(京都市右京区花園妙心寺町)
ここに織田信長の墓がある。
非公開。パンフにも載っていない。
妙心寺の方に教えてもらいました。
織田信長の墓の近くに明智風呂がある。
明智風呂は天正15年(1587)塔頭太嶺院(廃寺)の
密宗和尚が、明智光秀の菩提を弔うために創建。
織田信長と光秀はどのような関係だったのだろうか。

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2007年05月10日

織田信長・伊吹百草

伊吹百草(米原市春照)
元亀元年(1570)頃織田信長は宣教師に土地を
与えて薬草園を造らせたと伝えられている。
ヨモギは、織田信長が「黒色火薬」を作った原料として用いた。
そういえば、鉄砲の国友とこの伊吹とは
直線で十数qの距離である。
posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする