2007年06月30日

家康の祖父・守山崩れ

守山崩れ
天文4年(1535)12月4日早朝、岡崎城主・松平清康が
尾張国春日井郡守山の陣中において、
家臣の阿部弥七郎正豊に暗殺された事件をいう。
松平氏は、この事件を契機に力を失っていく。
家康の祖父・清康は、「30半ばまで生きていれば、
天下を取ることもできた」
とまで謳われたほどの名将であった。
しかもその清康は、家臣に暗殺された。
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2007年06月28日

松平氏・細川氏

細川氏は愛知県岡崎市細川町から生まれたとされるが、
徳川家康の先祖である松平氏の発祥の地
(愛知県豊田市松平町字赤原)とは、10kmと離れていない。
この距離が歴史に影響を及ぼしたのだろうか。
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2007年06月27日

あなたがもし光秀タイプだったら

あなたがもし光秀タイプだったら
相手の立場になって考えてみたらどうだろうか。
光秀だったら、織田信長の好んだ「敦盛」を信長のまねをして舞っていたらどうなっていただろうか。
信長に親近感を感じられたかもしれないし、「あんなに無理して生きるのも大変だよな。」と
信長の悲しさを愛することが出来たかもしれません。

お知らせ
野口嘉則著『鏡の法則』のコミック版が、7月10日に出版されること
になった。
長年断絶状態だった親に感謝の手紙を書いたら、親が泣きながら電話をかけてきてくれた等など、感動的な体験談が寄せられている。
是非、日常生活にいかしてみてください。
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2007年06月26日

明智光秀・「時は今」

「時は今」は中国の古典『三国志』の故事である
「危急存亡の秋」の意で、
「あめが下しる」は「天が下界のすべてを見ている」とし、
「今こそ天下危急の折、先のことも天がすべて見ているこの五月だ」という解釈もある。
この解釈だと織田信長の野望を危険視する
明智光秀の思いが込められている。
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2007年06月25日

明智光秀・細川ガラシャ・細川護熙首相

細川ガラシャの最期は切支丹殉教の栄光とも思えるが、
華のようにパッと咲き散った父光秀の最期を知った以後、
ガラシャ自らもその゛時゛を求め続けていたのでしょうか。
散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ
という辞世の歌がそのことをもの語っているように思えるのです。
この句は、旧熊本藩主細川家18代の末裔にあたる
細川護熙首相が1994年4月佐川急便グループからの
1億円の資金流入問題に端を発し
国会が空転した責任を取る形で首相退陣した時
引用した事でも知られる。
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2007年06月24日

明智光秀・第79代総理大臣

細川護熙
第79代総理大臣。
元熊本藩主の細川家18代目。母方の祖父は、五摂家筆頭で
第二次世界大戦前に首相を3度務めた公爵・近衛文麿。
父・護貞は、近衛首相秘書官。
戦国時代末期の細川忠興・ガラシャ夫妻は、先祖。
ガラシャの父は、明智光秀。
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2007年06月23日

明智光秀・明智薮

明智薮(京都市伏見区小栗栖小阪町)
近江坂本城主、明智光秀は1582年(天正10年6月2日)早朝、
中国地方へ出陣のため上洛していた織田信長を
本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。
その後光秀は、6月13日山崎の合戦で、秀吉軍に敗れ、
近臣十数名とともに暗夜に乗じて坂本城をめざしたが、
途中小栗栖の附近にさしかかったところを
信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃により
あえない最后を遂げたといわれている。
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2007年06月22日

明智光秀・瀬田の唐橋

瀬田の唐橋(大津市瀬田)
天正10年、本能寺の変後、安土城に向かう
明智光秀の進路を阻むため、山岡景隆が橋を焼き落とした。
この橋が、焼き落とされなく安土城にすぐ行けたならば、
歴史はどのようになっていたのだろうか。
日本三大名橋の一つ。
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2007年06月21日

明智光秀・慈眼寺

慈眼寺(京都府北桑田郡京北町周山上代4)
釈迦堂で明智光秀の位牌と木像を祀っている。
戒名は主一院殿前日州明叟玄智大居士とある。
木像は逆臣の汚名のためか、真黒に墨を塗られ、
今はその墨がはげ桔梗の紋がかすかに見えている。
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2007年06月20日

明智門・大徳寺・金地院・天海

明智門(京都市左京区南禅寺福地町・金地院)
天正10年明智光秀が母の菩提のため、黄金千枚を
寄進して大徳寺に建立せしを明治初年、金地院に移建す。
金地院は、慶長の始め崇伝長老が南禅寺塔頭に移建。
金地院崇伝は徳川家康に近侍し、天海僧正と共に幕議に参画。
この金地院に明智門は移建された。

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2007年06月18日

明智風呂・織田信長の墓

明智風呂(京都市右京区花園妙心寺町)は天正15年(1587)
塔頭太嶺院(廃寺)の密宗和尚が、
明智光秀の菩提を弔うために創建。
明智風呂の近くに開山堂がある。
ここに織田信長の墓がある。非公開。パンフにも載っていない。
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2007年06月17日

明智光秀・細川ガラシャ・細川護熙

細川護熙
第79代総理大臣。
元熊本藩主の細川家18代目。母方の祖父は、五摂家筆頭で
第二次世界大戦前に首相を3度務めた公爵・近衛文麿。
父・護貞は、近衛首相秘書官。
戦国時代末期の細川忠興・ガラシャ夫妻は、先祖。
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2007年06月15日

明智光秀・福知山城

福知山城が近世的な城郭に築城されたのは、
天正7年(1579)、織田信長の命を受けた明智光秀が
丹波を平定した時から始まる。
地元の記録によると、明智光秀が、近隣寺院の石塔を集め石垣とし、由良川の流路をかえ城下町を守る堤防を築いたとなっている。
又、光秀は福知山町に地子銭免除の特権を与え、
三丹一と称された商都の基礎をつくったとして彼の功績を讃え、
非業の最後を慰さめるため御霊神社が建てられ、
元文2年(1737)から御霊会(現在の御霊まつり)
が行われ始めました。
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2007年06月14日

教科書でおなじみの「織田信長像」

教科書でおなじみの、重要文化財「織田信長像」が
名古屋市博物館(瑞穂区瑞穂通)にて、
平成19年6月16日から6月24日までの期間限定で公開される。
信長像は天正11年(1583)、信長の一周忌法要が
長興寺(豊田市)で行なわれた際、
生前の信長を知る狩野元秀が描き、奉納したとされる。
縦70cm、横30cmほどの小振りな絵だが、
信長の特徴をよく表しているといわれている。
原則「門外不出」とされ、戦後は地元豊田市の郷土資料館や
1992年のスペイン・セビリア博物館などで計6回公開されただけ。
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2007年06月13日

明智光秀・織田信重

織田信重
津田信澄の長男。母は明智光秀の娘。
祖父は織田信長の弟・織田信行。
大坂の陣では豊臣軍として活躍。
大坂城、落城後、幕府に自首。
徳川家康に罪を許される。
豊臣方につくも、
母が明智光秀の娘だったので許されたのだろうか。
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2007年06月12日

明智光秀・大石内蔵助良雄

大石内蔵助良雄
熊本駅近くの細川家ゆかりの安国寺に保存されている「土岐系図」
である。
その寺は、光秀の子明厳梵鉄和尚が開山したものという。
その系図には、光秀の側室として公家原仙仁の娘があげられている。
この原仙仁が何者なのかよくわからない。
その長男は松寿丸とある。
次男は秀寿丸は三宅藤兵衛を名乗り、その後細川忠興に仕えて肥後
に住みついたという。
恐らく、この人物が明厳梵鉄和尚ということなのであろう。
不立は三男である。
四男は於鶴丸。
五男は光保。
六男は浅野内蔵助で、「忠臣蔵」で有名な大石良雄の祖父という。
疑わしいところもあるということだが。
大石内蔵助良雄は光秀の子孫ということになる。
学研「俊英明智光秀」の永井寛氏の追跡・光秀の末裔参照。
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2007年06月11日

明智左馬助・徳川家康

松平久子は、徳川家康が生母於大と生別して以来、
家康を養育した人である。
松平久子の娘(父は鈴木重直)は、遠山利景に嫁いでいる。
利景の兄は、明智光秀の娘婿の明智左馬助(弥平次)光春(秀満)である。


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2007年06月10日

明智光秀・遠山の金さん

遠山の金さん
「そんなに遊び人の金さんを見たいか。
悪党ども、この桜吹雪の刺青が目に入らぬか?
これでも知らぬと言えるのか!」
遠山金四郎は勝ち誇ったように言った。
テレビでおなじみのせりふです。
実際はどうだったかは分かり
ませんが(そうではなさそうですが)、
この遠山の金さんこと
遠山左衛門慰(金四郎)景元も明智光秀と関係があるのです。
明智秀満の弟・遠山利景は松平清康の妹で徳川家康の育ての
母・松平久子の妹を妻としている。
そのためか家康から尊重に扱われた。
その分家筋に遠山の金さんが出ている。
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2007年06月09日

明智左馬之助・坂本龍馬

伝えによれば、明智左馬之助光春(秀満)の妾腹の子、
太郎五郎が、近江国坂本城が落城したため、
土佐にのがれ、坂本城の地名、坂本姓を名乗って帰農した後に、
四代目が酒造業に転じた。やがて町人郷士となった。
坂本家十代、坂本権平の弟だった龍馬は、
明智につながる家系を誇りとして、桔梗紋をつけた。
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2007年06月08日

明智左馬助・坂本竜馬

「幕末の坂本竜馬は明智左馬助(弥平次)光春(秀満)の子孫であるという。」
この一節の中にひょっとしたら歴史の秘密があるのではと思わされたのです。
むろんこの種の家系伝説というのはほとんど付会説か作りばなしが多いのですが、
坂本家の紋が光秀の桔梗紋を継いでいることを思うと、
坂本家ではたてまえとしては左馬助の子孫を称していたことを思うと不思議でならないんです。

posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする