2007年07月25日

徳川家康・お大の方・松平定信

松平定綱
慶安4年(1561)没。お大の方と俊勝の間に生れた定勝の二男。
第3代桑名藩主子孫に寛政の改革を行った松平定信がいる。
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2007年07月22日

徳川家康の代9子

徳川義直
名古屋城(名古屋市中区二の丸)
名古屋城は、この地に家康の代9子の徳川直義を
尾張藩主とした際、その居城としてつくらせたものである。
名古屋城
名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、
慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、
また、大坂(現大阪)方への備えとして、
清須(現清州町)から名古屋へ遷府を決定し、
加藤清正・福島正則・前田利光等北国・西国の諸大名20名に
普請(土木工事)を命じ、天守閣や諸櫓の作事(建築工事)は、
慶長17年(1612)にほぼ完成した代表的な平城。
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2007年07月21日

徳川家康・豊臣秀吉の異母妹

朝日姫
豊臣秀吉の異母妹。徳川家康の正室。
禅養寺(名古屋市中村区烏森町)の
表門は豊臣秀吉の妹朝日姫の夫であった副田隠斉
の家門であった伝えられている。

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2007年07月20日

家康・不発(うたず)橋

不発(うたず)橋(宇田津・歌津)
此地の由来は、往時宇田津という鞍作りの名工が、
名古屋城築城の際、彼地へ移り住むにあたり祖霊を
祀り宇田津明神と崇めたという言い伝えがあります。
また、天正12年(1584)小牧の役のころ、家康軍の
ある侍が、小牧山に陣している家康のもとに敵の
動きを知らせようと此砦を通り抜けるとき、鉄砲で
うたれてしまいました。「敵をうたずに死ぬのは残念
・・・」と言い残したため、不発というようになったとす
る説がある。
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2007年07月17日

徳川家康・後藤庄三郎

後藤庄三郎
天下統一した徳川家康は京都の金匠・後藤庄三郎
を招いて「金座」を設置し、豊臣秀吉の天正大判の
制度をそのまま取り入れ慶長6年(1601)から慶長
大判を発行。金座では豊臣氏同様、後藤家に管理
させ大判は「大判座」で小判とは別の管理のもとで
作られた。後藤家の役宅は日本銀行所在地にある。
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2007年07月16日

徳川家康・八男仙千代

松平仙千代(1595〜1600)
高岳院(名古屋市東区泉2)
持名山と号し、浄土宗。
慶長11年(1606)徳川家康が早逝した八男仙千代
(法名高岳院殿)の菩提を弔うため、
甲斐国(山梨県)にあった教安寺を、平岩親吉に命じ、
清須城外に移建して高岳院と改め教安寺第8世照蓮社誉呑宿
を開基とした。
慶長16年(1611)清須越で今の地に移った。
旧国宝であった山門は、清須城の黒門を移したものであったが、
戦災で失われた。
わずか5歳のとき大坂で夭折した。
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2007年07月15日

徳川家康・八重洲

ヤン・ヨーステン
1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号で
ウイリアム・アダムスらと豊後に漂着した。
そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、
外交や貿易について進言する役目についた。
彼の江戸屋敷は現在の和田倉門−日比谷間の内濠の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、
明治まで続いた。
現在は、中央区の八重洲として
ヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。
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2007年07月14日

徳川家康・三浦按針

三浦按針(中央区日本橋室町)
ウイリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生まれ、
慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、
この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・地理・数学等に
業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に通商の顧問となり
日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)4月24日平戸に歿した。
日本名三浦按針は相模国三浦逸見に領地を有し、
また、もと航海長であったことに由来し、
この地も昭和初年まで安針町と呼ばれた。
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2007年07月13日

明智光秀・筒井順慶・筒井康隆

筒井順慶
1549年3月31日〜1584年8月11日           
順慶のもとには明智光秀の子が養子としていっている。   
SF作家の筒井康隆はこの子孫。             
「洞ヶ峠を決め込む」、日和見の代名詞として知られる
順慶である。
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2007年07月12日

徳川家康・振姫・蒲生氏郷の子

振姫
徳川家康の三女として浜松城にて生まれる。
母は側室・穴山氏(お竹の方)
1598年 蒲生氏郷の子・秀行と結婚、2男1女。
1612年 夫秀行が30歳の若さで急逝。
1616年 父・徳川家康の命により浅野長晟と再婚。
1617年 長晟の次男・浅野光晟を生むが、
産後まもなく38歳で亡くなりました。
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2007年07月11日

徳川家康・異母弟

広忠寺(岡崎市桑谷町堀切)
永禄5年(1562)家康が、非業の死を遂げた
父・広忠の菩提を弔うため創建した寺。
徳川家康と同じ年の同じ日に生まれた異母弟が住職になり、
母のお久とともに広忠の供養に勤めた。
境内にお久、広忠、忠政(広忠とお久の子)の墓がある。

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2007年07月10日

徳川・三河・足利

足利氏と三河
承久の乱(1221)後、三河守護に任命されたのは足利義氏である。
足利氏は、源氏の一流で、下野国足利荘を本貫地とし、
熱田大宮司家とも姻戚関係にあり、
義氏の父義兼の母は熱田大宮司範忠の娘であった。
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2007年07月09日

徳川家康・於大の方

享禄元年-慶長7年(1528-1602)徳川家康の生母。
三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘。
天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚。
翌年に家康を生む。
後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝と再婚するも
人質として織田方や今川方を転々とする我子家康を慰め、
音信を断たなかったという。
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2007年07月08日

家康・築山御前・織田信長の娘徳姫・信康

家康の長男信康は、織田信長の娘徳姫と結婚し、
家康が浜松城に移った年(1570)岡崎城主になりました。
信長は、信康の母・築山御前が今川方の出身であり、
武田方と内通しているとの理由で、築山御前と信康の処断を家康に迫りました。
家康も助命のために努力しましたが、果せず信康は自刃、
築山御前は殺害されてしまいました。
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2007年07月07日

松平久子・家康・明智光秀・遠山の金さん

遠山の金さん
「そんなに遊び人の金さんを見たいか。
 悪党ども、この桜吹雪の刺青が目に入らぬか?
 これでも知らぬと言えるのか!」
遠山金四郎は勝ち誇ったように言った。
テレビでおなじみのせりふです。
実際はどうだったかは分かりませんが(そうではなさそうですが)、この遠山の金さんこと遠山左衛門慰(金四郎)景元も明智と関係があるのです。
明智秀満の弟・遠山利景は松平清康の妹で家康の育ての母松平久子の妹を妻としている。
そのためか家康から尊重に扱われた。その分家筋に遠山の金さんが出ている。
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2007年07月06日

松平久子・徳川・明智・坂本竜馬

松平久子の子(父は鈴木重直)は、遠山利景に嫁いでいる。
利景の兄は、明智光秀の娘婿の明智左馬之助光春(秀満)である。
伝えによれば、明智左馬之助光春(秀満)の妾腹の子、
太郎五郎が、近江国坂本城が落城したため、土佐にのがれ、
坂本城の地名、坂本姓を名乗って帰農した後に四代目が
酒造業に転じた。やがて町人郷士となった。
むろんこの種の家系伝説というのはほとんど付会説か作りばなしが
多いのですが、坂本家の紋が光秀の桔梗紋を継いでいることを思と、坂本家ではたてまえとしては左馬助の子孫を称していたことを思うと不思議でならないし、左馬助の子孫を称していたことをある面スゴイと思う。
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2007年07月05日

松平久子・徳川家康・明智光秀・明智秀満

随念寺(岡崎市門前町)
1563年に家康が創建した楼門と白土塀の美しい寺で、
松平七代清康(家康の祖父)の妹・久子の墓がある。
久子は、家康が生母於大と生別して以来、家康を
養育した人。東海道を見下ろす丘陵に建てられた
一連の社寺の中でも、幕府の庇護が厚く、城の
防衛拠点としても名残りを、今もよく残している。
松平久子の子(父は鈴木重直)は、遠山利景に嫁いで
いる。利景の兄は、明智光秀の娘婿の明智秀満である。
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2007年07月04日

徳川家康・壬申の乱

関ヶ原は、徳川家康の900年前にも天下分け目の決戦の舞台
になっていた。いわゆる壬申の乱である。
1600年9月15日未明、家康配下の3万余は、ここ桃配山周辺に陣取り、家康はこの山頂において、大馬印を高々と掲げ、指揮にあたる。
最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとに、
しきりと作戦会議が開かれたと思われる。
桃配山は、壬申の乱の時、天武天皇が兵士を励ますために桃を配ったところだという。
徳川家康が縁起をかついでこの桃配山に陣をおいたといわれる。

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2007年07月03日

徳川家康・トヨタ

徳川家康の先祖である松平氏が愛知県豊田市の出身であることは
意外と知られていないかもしれない。
三河人気質が世界のトヨタにつながっていくのだろうか。
さらに中世の三河は足利氏の重要拠点であった。
このことも意外と知られていないかもしれない。

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2007年07月02日

徳川家康・織田信秀

万松寺(名古屋市中区大須)
天文16年(1547)三河の松平竹千代(のちの徳川家康公)
が6歳の時から約2年、万松寺で暮らしたことがある。
万松寺には、織田信長の父である信秀の廟所がある。

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