2007年07月01日

徳川家康・松平広忠

1549年、松平八代広忠(家康の父)が岡崎城内で殺された。
そのなきがらを密葬したのがこの地であったといわれている。
家康は、1560年、桶狭間の戦いの後、岡崎城主となり、
父のために墓の近くに寺を建てた。
自分の植えた松が念願どおり茂ったこと、
人質の身から独立し、三河の地に再び帰れたことを喜び、
寺を松応寺(岡崎市松本町)と名付けたと伝えられる。
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2007年06月30日

家康の祖父・守山崩れ

守山崩れ
天文4年(1535)12月4日早朝、岡崎城主・松平清康が
尾張国春日井郡守山の陣中において、
家臣の阿部弥七郎正豊に暗殺された事件をいう。
松平氏は、この事件を契機に力を失っていく。
家康の祖父・清康は、「30半ばまで生きていれば、
天下を取ることもできた」
とまで謳われたほどの名将であった。
しかもその清康は、家臣に暗殺された。
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2007年06月28日

松平氏・細川氏

細川氏は愛知県岡崎市細川町から生まれたとされるが、
徳川家康の先祖である松平氏の発祥の地
(愛知県豊田市松平町字赤原)とは、10kmと離れていない。
この距離が歴史に影響を及ぼしたのだろうか。
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2007年06月27日

あなたがもし光秀タイプだったら

あなたがもし光秀タイプだったら
相手の立場になって考えてみたらどうだろうか。
光秀だったら、織田信長の好んだ「敦盛」を信長のまねをして舞っていたらどうなっていただろうか。
信長に親近感を感じられたかもしれないし、「あんなに無理して生きるのも大変だよな。」と
信長の悲しさを愛することが出来たかもしれません。

お知らせ
野口嘉則著『鏡の法則』のコミック版が、7月10日に出版されること
になった。
長年断絶状態だった親に感謝の手紙を書いたら、親が泣きながら電話をかけてきてくれた等など、感動的な体験談が寄せられている。
是非、日常生活にいかしてみてください。
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2007年06月26日

明智光秀・「時は今」

「時は今」は中国の古典『三国志』の故事である
「危急存亡の秋」の意で、
「あめが下しる」は「天が下界のすべてを見ている」とし、
「今こそ天下危急の折、先のことも天がすべて見ているこの五月だ」という解釈もある。
この解釈だと織田信長の野望を危険視する
明智光秀の思いが込められている。
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2007年06月25日

明智光秀・細川ガラシャ・細川護熙首相

細川ガラシャの最期は切支丹殉教の栄光とも思えるが、
華のようにパッと咲き散った父光秀の最期を知った以後、
ガラシャ自らもその゛時゛を求め続けていたのでしょうか。
散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ
という辞世の歌がそのことをもの語っているように思えるのです。
この句は、旧熊本藩主細川家18代の末裔にあたる
細川護熙首相が1994年4月佐川急便グループからの
1億円の資金流入問題に端を発し
国会が空転した責任を取る形で首相退陣した時
引用した事でも知られる。
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2007年06月24日

明智光秀・第79代総理大臣

細川護熙
第79代総理大臣。
元熊本藩主の細川家18代目。母方の祖父は、五摂家筆頭で
第二次世界大戦前に首相を3度務めた公爵・近衛文麿。
父・護貞は、近衛首相秘書官。
戦国時代末期の細川忠興・ガラシャ夫妻は、先祖。
ガラシャの父は、明智光秀。
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2007年06月23日

明智光秀・明智薮

明智薮(京都市伏見区小栗栖小阪町)
近江坂本城主、明智光秀は1582年(天正10年6月2日)早朝、
中国地方へ出陣のため上洛していた織田信長を
本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。
その後光秀は、6月13日山崎の合戦で、秀吉軍に敗れ、
近臣十数名とともに暗夜に乗じて坂本城をめざしたが、
途中小栗栖の附近にさしかかったところを
信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃により
あえない最后を遂げたといわれている。
posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月22日

明智光秀・瀬田の唐橋

瀬田の唐橋(大津市瀬田)
天正10年、本能寺の変後、安土城に向かう
明智光秀の進路を阻むため、山岡景隆が橋を焼き落とした。
この橋が、焼き落とされなく安土城にすぐ行けたならば、
歴史はどのようになっていたのだろうか。
日本三大名橋の一つ。
posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月21日

明智光秀・慈眼寺

慈眼寺(京都府北桑田郡京北町周山上代4)
釈迦堂で明智光秀の位牌と木像を祀っている。
戒名は主一院殿前日州明叟玄智大居士とある。
木像は逆臣の汚名のためか、真黒に墨を塗られ、
今はその墨がはげ桔梗の紋がかすかに見えている。
posted by 楽苦我喜歴史館・館長 at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする